◆今夜も枕投げ◆ -12ページ目

こんなタイトルのブログやってるだけに

 この競技 については外せない。

あっちとこっち

 今日の帰りがけ、電車に載っていると、下北沢で一人のおじさんが乗車してきた。おじさんは荷物ひとつなく、服装は上から下まで紺のスウェット。きょろきょろと周りを見渡しながら、車両の端に座った。電車が走り出した。車両には僕の家族と、ぽつぽつと数人の人がいるだけで、がらんとした空気。がたんがたんと、静かな車内に電車の走る音がする。

 しばらくすると定期的に響く音以外にも、音が聞こえてきた。気になって見回してみると、さきほど電車に載ってきたおじさんが、外を見ながら「うーー、うーー」と唸っていた。彼はそのまま終点の新宿まで、ずっと不定期に、「うー、うー、」と呟いていた。高くもならなく、低くもならなく、一定の音を電車に響かせていた。

 子供の頃、ああいった事をよくやっていたと思う。突然頭の中にリズムが浮かんで、それを口ずさまずにはいられなくなる。その行為はとても楽しくて、楽しくて、目に映るものと頭に浮かぶもの、全身で感じるものが混ざり合ってひとつになって、奔流となって口から漏れる、そんな感じのものだった気がする。

 時がたって、いつのまにかそんなことをやらなくなった。けれど彼は今でもそれをやっている。僕は、彼のような人々の考えている事、感じている事を、知ってみたいと思う。どうしてその思考、感覚に至るのか。いつかは解る時が来るのだろうか、その時僕はどんな事を感じるのか、それは僕にも、誰にも解らない事なんだろう。

まった妄想

 わたしのいえはレンガでできた、とってもせまい一階建てのおうちです。そこにおとうさん、おかあさん、おとうと二人と住んでます。お兄ちゃんはおおきくなったので、とおくの町へ出稼ぎにいきました。まいとしおてがみとお金をおくってくれます。おにいちゃんががんばってくれるおかげで、まいとしまいとし、おくってくれるお金がふえているので、おとうとたちもがっこうにいけます。

 このあいだはわたしにおようふくを送ってくれました。きれいな模様のはいった、かわいいわんぴーすです。とてもうれしかったです。でも、おにいちゃんはさいきんおうちにかえってきてくれません。おとうさん、おかあさんは、りゆうをきいてもおしえてくれません。「どうして?」ってきくと、なきそうなかおをします。どうしてだろう。おかあさんはときどきなきながら、ぎゅーっとします。

 おかあさんのためにも、はやくかえってきてくれるといいな。

 っていうのを鉄腕ダッシュ見て考えた

オラタンはやっぱ面白い

 ここ最近、友人が連ザにはまってるせいか、よく新宿で遊んでいます。新宿といえばクラブセガ西口店、またの名を西スポっていうゲーセンがありまして、中学高校時代と俺の青春の7割位を詰め込んだ、呪われた場所であります。

 西スポは昔からわりと色々なゲームのプレイヤー技術が高かったりするんですが、例に漏れずやっぱ連ザも連ジ時代からの積み重ねでレベルがバカ高いわけで、僕の使うエールストライクも見えない黒い人に痺れさせられて縛られて『けっショボイ金しかもってねぇなと』100円盗られて国道に投げ捨てられて、すんすん泣きながら家への道のりを歩くわけです。

 そんなわけで大概近所の50円ゲーセンへ行って地道にちょこちょこ練習するんですが、西スポといえば前述の青春の8割(増量中)を費やした原因となったゲーム、オラタンの聖地とも言われたゲーセンでもあったわけで、ここ最近懐かしくなってきて、対戦ゲームの集中する、地下フロアへも足を運んでいます。

 相変わらず変わらない大型筐体の配置、会話をしないコミュニケーションノート、改装したおかげで、暗い照明をメインにした、小奇麗な空間になっていても、そこにはあの頃ひたすらに上を目指していた自分の抜け殻がありました。

 フォース筐体が列を成す中、奥の方にひっそりと、オラタンの5.4と5.66の筐体が1セットずつ置かれていました。最近全国大会があったせいか、金曜日の夕方という時間もあってか、オラタンにも昔程ではないにしろ、何人も集まって対戦していました。この時期にやってる人はやっぱ、昔から続けている上級者位なもので、なかなか高いレベルです。そんな中、昔の知り合いが僕がいた事に驚き話しかけてきたり。

「モンド(チャロン時代の呼び名)久しぶりじゃないか、ところで

「?」

「飯おごって」

しょっぱなそれかよ!

 数回やっていきましたが、やっぱりブランクやらレベルの差は大きくて、惜しい所までいけてもここぞで負けたりして、難しさを実感。

 でも、やっぱり楽しい、瞬間瞬間で判断を迫られるゲームスピード、直感で動きながらも、思考し、戦術を考え、実行する。これだけ楽しめたゲームもそうないです。そのぶん敷居が高いのが問題といえば問題なんですが・・・またはじめてみようかな。まずは操作ミスをしないように基本動作を思い出す所から。

 

キャシャーンを見た

松竹
CASSHERN

 人間だれしも、自分の中に求めるモノがある。金持ちになりたい、あの子と付き合いたい、有名になりたい。人それぞれその形は違えど、必ずそのような「夢」を持っている。

 だが夢とは叶えるのが難しいからこそ夢であって、夢を「見る」事はできても「掴む」事は殆どの人ができない。夢破れた人々はそのころの自分の思いを胸に秘め、日々を生きていく。

 この映画の登場人物達は、せつなく、悲しい程にその夢へとひたむきに進む。

「生きたい」「母に会いたい」殆どの人々が望まずとも手に入るこの当たり前の望みを、彼らは得られない。当たり前の事を、夢としてしか見られない彼らを、すべての人々は否定し、虐げる。そんな悲しい願いを持った彼等の、悲しい戦い。

 映像技術の面においては、その筋の能力は一流。色の使い方や、絵の作り、どれをとっても監督の撮り方で作られており。紀里谷和明本人でしか作れないものばかりだ。 時折ギャグとしてしか見れないシーンもあるが、そこはご愛嬌。 まさか唐沢のクロスカウンターが見れるとはおもわなんだ。

 構成、脚本は世間一般ではものすごい評価だが。僕はこの映画は絵と、その話の悲壮感に浸る映画だと思うので、そういうものだという判断にしておく。ただひとつどうしても納得できない所を言わせてもらうと。新造人間の設定であるが。。。結局どういう肉体なんだねきみら。

 わりと僕はこの映画は好きだ。監督自身のコンプレックス、まるで叫ぶかのように、むき出しの感情を、自分しかできない手段で主張する。こういった映画がたまにはあってもいいじゃないだろうか。

∑( ̄□ ̄*)

 後期が今日よりスタートです。夏休みのだらけきった、リラックマな生活環境を改善しなきゃ…といった具合です。そんな中、重要なのが後期の講義履修予定。私の通う大学では、まず期間の最初の一週間に興味のある講義を聴講し、受けたいと思った講義を、申告して聴講します。

 さて、その申告に必要なのが、聴講する講義を登録するための履修届。これが無ければ授業を聴講するどころか、ほぼ半年間大学に来る意味が無くなります。そんな大事な大事な履修届。

 私、受け取ってませんでした。

 事の異常に気づいたのは、三日前。友人から「履修届って、いつ提出なのか解る?ヽ(´▽`)/」とメールが来ました。それまで履修届の事をさっぱり忘れてた俺。「さ・・再来週位でいいんじゃないかなー?'`,、(´∀`*;) '`,、」と焦る自分を抑えつつ返信。さて大変です、履修届の事なんてきれいさっぱり忘れていました。履修届は、毎期最初に学科生全員が集まる所で配られる物です。一番最近で、全員が集まった場所。

 成績配布でした。ヤッチマッタ。成績だけならネットで発表になるというので、油断していました。まさか前期成績配布の際にこれを配るなんて。毎年同じなんだから、今年も例外無くそうであると、学習していないまぬけな私も私ですがが。

 なので本日、学科の事務室で履修届を受け取ってきました。しかし、遅れた事、なぜ受け取ってな

かったのか等、お咎めは特に無し、教授がたのお小言がある成績配布の日に受け取るよりは、こうやって後で事務室で受け取る方が、楽です。先生方、これは考えた方が良いかもしんないですよ?

さて、履修届の予定を照らし合わせてみると、今期の日程は水曜日がヤマです。

朝から実験→4限まで授業→研究室ミーティング+当番→バイト、と一週間の色々な物が山積みになっています。それだけ一日でかたせるんでしょうか自分。((;;゚□゚))ガタガタ

ついに快眠生活へ!

 つい先日、銀座へ映画を見に行った際、ココ のショップで、念願の低反発枕を買いました!弟のベッドに転がっている無印低反発枕の余りの寝心地のよさに衝撃を受けて以来、もうどうにもたまらなかったわけですが。ようやく手にする事になりました。

 値段も1500円と結構手軽。平均価格3000円もするものを、これだけ安く買えたのはラッキーでした。

 そのさわり心地も、押した所はぐにゅっとつぶれ、もどる時はふんわり戻る。うむ、完璧な低反発枕ではないか。

 しかし枕というものは、本来使い慣れた物の方が眠りやすいのは当然で、僕の場合も、低反発枕の確かな寝安さよりも、長年愛用したパイプ枕のが、落ち着くという逆転が起こってしまい。まだまだ低反発ユーザーになるには時間がかかるようです。

 ふと、中学時代に劇団に入っていた同級生の名前を検索してみた。わりと数年ぶりに思い出した名前なので読みは解れど、漢字解らず、少々苦労したものの、在学、卒業後の彼の劇団遍歴を見ることができた。昔から外見も中身も格好いい男で、もちろん同学年の中では人気No1、一時期校則で禁止事項だった茶髪が増えすぎてた、そのブームの火付け役でもあった彼が頭を丸坊主にして、全員の茶髪至上主義を納めたという逸話もあるほど。まぁその後坊主ブームになったわけで良かったのか悪かったのかはまた解らなくなったけど。

 そんな彼でも、芸能界はなかなか厳しいのか、チョイ役でも出てる数は少ないようで、業界の厳しさというのをそこから感じ取れる。仕事の履歴も2000年で止まっていた。今も彼は俳優の道を志しているのだろうか、それとも新しい夢を見つけ、そこへと邁進しているのだろうか。今となっては全くどうなってるか解らないけど彼の事、きっと世の中を上手く生きてる事だろう

 僕もがんばらなきゃな

今回の取得単位数から見る、俺ダメ度合い

 取得単位数12/20 でした。前期前半、あれだけ学校不振になりながらも、よくここで持ちこたえたものだと少し自分を褒めたい所です。いや、まぁ落としちゃあかんていうのは解ってますよはい、本当ですよ?インディアンウソツカナイ。

 再試験を受けたのは2つなので、1講義2単位で計算される我が大学の理屈からいくと、16までは回復する予定。予定。予定は未定。

 前期を思い返してみると、なんかこう、(´A`)←な感じに生きていた気がします。授業に意味を持つことができず、ひたすらグデーと学校行く事ができなくなって、さらに、せっかく入った研究室の空気になじめず、さらに学校に行きにくくなり、で、その積み重ねで、「いまさら授業でてもな(´A`)」「研究室出せる顔ねぇな(´A`)」と悪循環の大爆発。実験の日に出席とってくれた友人達や支えてくれた人々には本当感謝してもしきれません。おかげさまでなんとか乗り切れました。本当にありがとう。

 「アンドロギア、ブレーキだ。止まる時はブレーキをかけなくちゃ」

 「そう言われても、ハンドルに注意がいってると、他の事はついていかない」

 「な、理屈どうりにはいかないだろ」(魂の駆動体)

 なんだって、机上の空論じゃあうまくいかない、頭にあるものと、実際に体を動かして、経験してそいでもって自分のモノにしていかなけりゃならない。最近「お前はものごとを考えすぎる、考えすぎると、何も行動できないぞ」と言われた。全くその通りだと思う。ああしたら、こういうリスクがともなう、こうしたらああいうリスクがともなう、何にだって、どんなリスクはつきものだし、それをふまえてなお、自分に対する利益を生み出していかなきゃいけない。リスクを覚悟しなきゃ、やれる事は限られるし、リスクを伴った方が、大きなリターンがある可能性だってあるのに。僕はどうも昔から、極端にリスクに対する恐怖感があるように思える。失敗に対する恐怖。わりとそこに人生を動かされていたような気もする。「失敗したっていいじゃない」その言葉を、もっと信じて生きていけばいいんだろうか。人生って難しい

リハビリリハビリ

 秋っぽいのに模様替え。

 最近めっきり更新してなかったせいか、長文を書くことができない状態になっていました。気がついたらさっぱしブログも書いてない、だからといって、思いついて書こうとしたSSもわりと中途半端で投げっぱなし。これはやばい やばすぎる。

 というわけでリハビリをしようそうしよう。

 ハチクロCafe がお台場に

 

 カフェはカフェでも一味違う。ハチクロタイアップの期間限定カフェ。なんと7月頃から開催していた様子。いやはやさっぱり知らなかった。 どうやら9月いっぱいまで開催している様子。これは一度は行っておきたいなー。ただ少々残念なのが。

なぜ山田メニューがないんだ!!!

あとワカメソフト!ワカメソフトを!!ハチクロの魅力の三分の一はあの破壊神メニューの数々だというのに

 フジテレビさん、いちごご飯とかカボミントとか、作ってみましょうよ。経費は宣伝費として諦めて!運がよければそっちの方が客足伸びるだろうし!

 店頭の写真にある、羽海野チカ(人形)の写真がいい味出してる。そういえば昔住んでた家の近くに、ちっちゃい雑貨屋があって、そこの店の前にはいつも、1m位のでかいこげ茶色の熊のぬいぐるみが、木製のおしゃれな椅子に座らせられていました。その首にはopenと書いてある札がかけられていて、雨の日以外はいつも外にすわって、道行く人を眺めていました。首にかけた札以外にもいつも服を着せられていて、そんな毎日変わるわけでもないのだけども、季節ごとに違う服を着ているといったものでした。クリスマスかなんかだと、サンタの格好をして、札なんかも「Merry X'mas」とかなんかに変わっていたりしてました。

 その熊の雑貨屋は大通りに面したマンションにある一階の小さいスペースで。排気ガスを避けるためか、通りから5M程離れている所にマンションが建っていました。マンションは少し奥まった所にたっていたせいかその看板代わりとして、その熊は大通りの近くに座っていたのです。大通りにはもちろん車はぶんぶん通っていたので、日に日に排気ガスを浴びた熊は、段々焦げ茶から黒っぽくなっていうくという。余りに汚れた時は店主の人が洗ったらしく、すっかり元の色に戻っていたりしてましたけど。

 その熊がいたのは、私がいつも使っていたバス停の目の前で、毎朝、バスに乗るまで、熊の脇に立ってるのが日課な感じでした。今考えると なんであんな朝早くから開いてたんだろ雑貨屋。

 雑貨屋は二年位で閉店してしまいましたが。あの頃の熊は、今でも思い出せるくらい、くっきりと頭の中に残っています。

|´(工)`)ノ というわけで明日から塩原行ってきますクマー

コネタ

遺言

 戦争を体験し、高度経済成長する日本を育て上げ、また自分自身において、人並みに恋をして結婚し子を産み育て、生きて生きて生き抜いて、そんな一人の男の最後の言葉。

こんなジジイに俺もなりてぇ